reminders, I was there

reminders, I was there file#6


不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。


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コロンビア バランカベルメッハ 1991年



「旅をしよう。一週間ぐらいだ。持つものは最小限でいい」
人権擁護団体職員のフリオがこう言い、翌日の早朝、小さなリュックを担いで待ち合わせの船着場に向かった。
「左翼ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)の支配地域に向かう。心配ない」
フリオが耳打ちし、それにうなずく。一時間ほどボートに乗り、小さな村に着いた。そこに案内人の男がいて、密林に隠していたボートでまた数時間川を上った。木々が切り倒された場所があり、ボートを止めると、小高い丘の上で少女がこちらを見ている。少女は何か合図を仲間に送ったようだ。「まだ写真を撮るな」と言われ、そこから山道を歩いた。

解放区と呼ばれる地域では、政府の力は及んでいない。丘の上ではコロンビア革命軍(FARC)の兵士たちの軍事訓練が行われているようで、掛け声がジャングルにこだましていた。まだ若い男女が銃を片手に、一列に並んでいた。なぜだか兵士たちもビデオを持っていて、僕を撮影し始める。崩れ落ちそうな小屋で数日間寝泊りし、毎日塩味の豆とライスを食べながら、軍事訓練を受ける兵士たちの姿をフィルムに写した。
「これが毎日の生活。今度会うときは、ネオンが輝く楽しい場所で会いましょう」
町に引き返す朝、これから軍事作戦に参加するという一人の少女が言った。


写真と文:後藤勝
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reminders, I was there file#5

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コロンビア バランカベルメッハ 1991年



コロンビア最大の油田基地があるバランカベルメッハでは、労働組合 La USO(Union Sindical Obrera)が最も活発に活動していた。La USOは賃金値上げや政府の不正を告発していた為、多くの組合員が右派民兵の暗殺リストに載せられ、1990年だけで、組合員の35人以上が暗殺または行方不明になっていた。

バランカベルメッハで一人の組合員が誘拐され、数日後、頭を切断された遺体がマグダレーナ川で見つかった。翌日市内で大規模なデモがあり、デモには左翼ゲリラシンパの若者が多く参加し、市内のあちこちでバスを燃やし火炎瓶を武装した警官に投げつけた。

数人の死傷者を出し、デモが終わった。覆面をした若者が「着いて来い!」と言う。地元のテレビ局のカメラマンと共に、車に乗り込む。20分ほどでスラムの一角に着く。裏庭に通され、テレビの前で銃を持ったゲリラが演説をする。みな顔を隠すため、干してあった子供の衣類を顔に巻き、そして言った。
「Nosotros luchamos por asta la muerte!(俺たちは死を覚悟して闘う!)」

写真と文:後藤勝
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reminders, I was there file#4

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コロンビア バランカベルメッハ 1991年


地元の人権擁護団体CREDOS(los Derechos Humanos)のオフィスは、バランカベルメッハのセントラルにある。暗い階段を上り、二階にある彼らのオフィスを訪ねた。入り口には、自動小銃を抱えた二人のDAS(大統領府治安局)の護衛がいて、「オラ!ボニータ!」と、しきりに外を通る女性に声をかけている。その一人に「チーノ(中国人)か?」と聞かれ、「ノー。エストイ ハポネス(いや、日本人だよ)」と答える。

所長のゴメズ氏に面会を申し込み、しばらくして奥の部屋に通された。がっしりとした体格のゴメズ氏に「この街で起きていることを写真に記録したい」と告げる。「君にも何が起こるかわからない。危険だ」という彼を、習いたてのスペイン語で説得をする。そして、「君もこの団体の一員として協力してくれるのなら。そして記録した写真を使わせてくれ」という条件付で、何とか了解を得た。

フリオという青年と共に活動することになった。翌日から眠る暇もないほど忙しい日々に追われた。虐殺があると、何日もかけて山道を歩き、その現場を記録した。誰から殺されたと聞くと、夜中でも飛び起きて現場に向かう。そしてオフィスでは毎日、家族を殺された人々が面会に来て、事情を聞く日々がつづいた。

ある日の夕暮れ、セントラル付近の飲み屋で、左翼ゲリラのシンパの若者5人が武装した右派民兵の襲撃を受けた。目撃者によると、一台の車から自動小銃を持った男たちが降り、店に入るなり、若者たちを一人ずつうつ伏せにした後、射殺していったという。近くに住んでいた犠牲者の家族が現場に着き、妻と娘が泣き叫びながら遺体に近づこうとする。警官が止めに入る。人々はその光景をじっと周りで眺めていた。

写真と文:後藤勝
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reminders, I was there file#3

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コロンビア バランカベルメッハ 1991年


南米コロンビアのバランカベルメッハに行くことにしたのは、偶然ニューヨーク・タイムズ紙の記事を見たのがきっかけだった。「コロンビアで最も危険な街・バランカベルメッハ」という見出しで、この街では、ジャーナリストや人権擁護団体職員が暗殺の対象となり、すでに何人も殺されているという記事だった。

コロンビアでは当時、左翼ゲリラのコロンビア革命軍と国民解放軍、政府軍、そして右派民兵組織MAS(現在は右派民兵組織コロンビア自警連合軍)が入り乱れて争っていた。最も危険な町と呼ばれたバランカベルメッハ市は北部マグダレーナ・メディオ州の主要都市であり、同国最大の油田基地があり、付近の山岳地帯は麻薬原料になるコカの葉栽培にも適していた。
バランカベルメッハには七十年代以降、解放区から大量の難民が流れ込み、以来左翼ゲリラの拠点がスラムに作られ、以来農村地帯で続いていた右派民兵との争いは、八十年代後半から都市で展開されることになる。町で誘拐や虐殺が日常化し、子供も容赦なく殺された。人々はこの闘いを「Guerra Susia(汚い戦争)」と呼んでいた。

首都ボコタに着き、バランカベルメッハ行きの長距離バスに乗る。約15時間バスに乗り、昼過ぎバランカベルメッハのバスターミナルに着いた。「安宿を探している」という僕に、「中国人の食堂がある」と親切なタクシー運転手がそこまで連れて行ってくれた。食堂で中華系二世のエンリケと会い、近くの宿を紹介してもらった。一泊約5ドルほどの三階建ての宿から窓の外を見る。すでに夕方だった。どこからか陽気なサルサが流れていた。
シャワーを浴び、これからどうするべきかと考えていると、突然爆竹のような音が近くで響いた。慌ててカメラを持って外に出ようとすると、宿の従業員が「止めろ」という。何も考えずそれを振りきって外に出た。宿の前のレストランで、三人の男たちが血まみれになっている。人々が、次第に集まってきた。「La Violecia, La violencia」と年老いた女性がつぶやきながら死体を見ていた。バランカベルメッハに着いた、初めての日だった。

写真と文:後藤勝
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エルサルバドル パルキン 1990年


写真を撮りながらオンボロバスでニカラグア国内を数ヶ月旅をし、その後内戦が続いていたエルサルバドルに向かった。目指すはFMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)の解放区である。首都サンサルバドルの安宿で、ドイツ人とフランス人のフリーカメラマンと出会う。みな僕と同じで、金もなくコネもない。「ホンジュラス国境付近のパルキンにFMLNの最大の拠点がある」というので、そこに行くと言う僕にみな、「今はゲリラ側の許可はでない。それに危険すぎるからやめろ」と言う。しかし写真を撮りたい一心で中南米に来た僕には、諦めることが出来ず、一人でパルキンに向かうことにした。夜明け前、リュックを背負った僕を、人の良い安宿の主人が見送ってくれた。

ニカラグアで革命が成立したのは1979年7月、それを受けてエルサルバドルでも左翼ゲリラ活動が一層活発化した。80年10月には五つの極左ゲリラ組織がファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)を結成し、本格的な内戦に突入する。

サンサルバドルを出て数日後、政府軍の検問を何とか潜り抜け、パルキン付近の町に着く。そこでゲリラ司令官に許可を申し込む。
「無理だ」という司令官を、何日もかけて説得する。自分が高校をやめてその後肉体労働をしてお金を貯めてここに来たこと、そして「自分は写真を撮るために来た。なぜあなた達が闘うのか、それを知りたい」と言った。ある日、やっと、数日間だけ滞在許可をもらった。

昼間はひっそりとしたパルキンの町も、時折真夜中、政府軍の武装ヘリコプターが襲撃に来た。バタバタという気味の悪い音と共に、生まれて初めて鼓膜が破れるほどの銃声を聞く。無差別に打ち込まれた銃弾で、町のほどんどの家々が破壊されていた。

ある朝、周りのジャングルにゲリラ達と向かい、途中、獣道の物陰で見張りの少年兵と出会った。何も言わずに、するどい眼をして僕を見る。少年は、獣のような眼をしていた。

その後92年に政府とゲリラは和平に合意した。しかし10年以上に及ぶ内戦で7万5千人以上が犠牲となっている。

写真と文:後藤勝
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